「お看取りの方向で。」
僕はこの言葉が嫌いだ。
お看取はどの方向に進むべきなんだろう。
涅槃かエデンの方向か。
錆びついた風見鶏は一点だけを見据える。
主治医が発する、この現実と残酷をもった悪気のない言葉は枷。
僕らを束縛し、無表情な人形へと変える。
「お看取りの方向で。」
この言葉が発せられたら、もうアンタッチャブルだ。
もう誰もさわれない。
倦怠だけが僕らを包む。
とたん、看護師たちの情熱は薄れ、家族ですらどこか遠い人になってしまう。
亡くなったあとで、きれいに体を清拭し、死化粧をほどこす。
そして、美しい着物で主人公の闘病を隠す。
納棺師だけが知り得る秘密。
「僕は死ぬ」という生命の営みに微塵の恐怖も感じはしないのだが、
できることなら身綺麗に死にたい。
死んだあとではなく、その瞬間に凛とした美しさを持っていたい。
医師たちは口腔を診ない。
間際にいる人々の口腔内は誰も見ない。
現実を知ってほしい。
僕だったら嫌だな。
こんな状態で死ぬのは。
人は皆、自分だけは死なないと思っている。
だからこそ、死への忌避感が主人公への距離をつくり興味を失わせる。
僕に残されたのは、うしろ髪を引かれただけの重さ。
主人公に残されたのは、呼吸苦と儚さ。
鼻からチューブを入れて、胃に穴をあけてさえも、高濃度の栄養がそそぎこまれる。
ぎりぎりのその時まで。
そこにまどろみはない。
もう僕にはあなたの気道を閉塞させる痂疲状の血痰を取り除くことはできないのです。
僕は死ぬのが怖くない。
子どもが産まれた瞬間に、僕の死生観は変容し、死への憂慮は霧散した。
主人公たちも多少なりともそうなのであろう。
だからこそ、子であるあなた、夫婦であったあなたには 最期まで情熱を失わないでほしい。
尊厳のある逝き方を与えて欲しい。
「どうせ死ぬんだから、もういいです。」
愛されていたあなたから、 ふたりして恋に落ちたあなたから、
もうそんな言葉は聞きたくない。