まだ僕が今より若かった頃の勤務医時代。
「あれじゃ、まるで蟻の王だな」
「蟻のアギトみたいだ」
僕は同僚にそう呟いた。
それから彼女のあだ名は「蟻の王」になった。
30歳くらいになると、自分の技量に自信と過信を感じるようになる。
自分の実力以上の症例にチャレンジしたくなる。
僕もそうだった。
ただその若いドクターはあまりにも無計画すぎた。
僕はその若い彼を影で罵っていた。
「俺ならもっとうまく顎の骨をつくることができた」。
50を過ぎたとはいえ、女性の顔貌が日々醜くなっていくのは彼女にとって、恐怖に他ならない。
僕は内心「俺を指名しないからだ」そう思って無関心のふりをしていた。
実際できることは何も無かった。
彼女が病院に来るたびに、他のドクターと蟻の王の話でもちきりだった。
ある日の午後、凍えるような寒空の下、昼食からの帰り道、不意に呼び止められた。
蟻の王だった。
「先生・・・私迷惑じゃありませんか?何度も手術をやり直して頂いて」。
「私まだこの病院に通っていいですか?」。
彼女は泣いていた。
彼女と話すのは初めてだった。
僕は面食らってしまった。
とっさに思いやりのある言葉が浮かばなかった。
なぜ俺に聞く?
「全然、迷惑なんかじゃありませんよ」そうとしか言えなかった。
彼女は感じ取っていたのかもしれない。
スタッフの嘲笑と、僕の傲慢な心の内を。
その日から僕の口は蟻の巣穴になって、僕の消化管は蟻の巣になった。
他の患者にどんな感謝の言葉をかけられても、少し潤うだけだ。
あれからどんなに雨が降っても蟻の巣は無くならずに、ここにある。
今もまだ、「少しでも彼女が良くなるように」と祈る事しかできずにいる。