とても昔、ある少女の治療をした。
彼女は拒食症だった。
おそらく生理も止まっているような体重だった。
嘔吐を繰り返し、歯牙はほぼ溶けて、下の前歯ぐらいしか残っていない。
僕は淡々と崩れた歯牙を抜歯して、
老人のように痩せた顎骨に、骨移植をしてインプラントを埋め続けた。
僕のクリニックではカーペンターズが流れている。
カレン・アン・カーペンター。
彼女以上に美しい歌声を僕は聞いたことが無い。
シューベルトのアベマリアではなく、グノーのアベマリアを歌うカレン。
僕はグノーの方が好きだ。
摂食障害で32歳の若さで死去する前のカレンのアベマリア。
アヴェ、マリア、恵みに満ちた方、
主はあなたとともにおられます。
あなたは女のうちで祝福され、
ご胎内の御子イエスも祝福されています。
神の母聖マリア、
わたしたち罪びとのために、
今も、死を迎える時も、お祈りください。
アーメン。
カレンを見ると、いつもあの少女を思い出してしまう。
僕は少女の心に触れることができなかった。
摂食機能をある程度回復させただけで。
治療はまだまだあったけれど、通院は途絶えてしまった。
スタッフがどんなに電話で説得しても二度と来院しなかった。
風のうわさで恋人ができたと聞いた。
それでも一抹の不安が心をよぎる。
今はもう彼女の健康の回復を、祈ることしかできない。
いつか僕は患うひとの、心に触れるような治療をしたい。
今日もそれは叶わなかった。
僕の心は硬く、おおらかさが無い。
硬く心を閉ざした人を、僕の心は弾いてしまう。
いつか、 いつか リエやミドリのようになりたい。
柔らかく、包むように。